2012年10月28日日曜日

途上国×技術×キャリア その4 - 混乱-

前回の続き。
今回は日本に戻ってから2回目のケニア滞在までの約半年の軌跡ついて書く。

【危機感】
ケニアから日本に戻ってから、私はあるスキルを身につけなければならないと考えていた。それは、物を作る為のエンジニアとしてのスキルであった。それを想い起こさせたキッカケが2つある。

- ソーラーランタンの修理
ケニアの非電化地域に導入されたソーラーランタンが初期不良によって、機能しなくなった事は前回のエントリーで述べたが、この初期不良は現地で修理できるのではと思い、問題がどこにあるのかを調べる事にした。しかし、どうやらバッテリーに問題がある事が分かったが、エンジニアとしてのスキル不足のため具体的にどこがどのように不具合が生じているのかが分からなかった。その結果、こんなシンプルな機構のランタンでさえ、自分の力で直す事ができず、自己嫌悪に陥った。

- デルフト工学大学入学の条件
デルフト工科大学に見学に行った際に、入試課の担当者の方から言われたデザイン工学専攻に入る二つの2つの方法。1つ目はデザインの専門性を持って入る方法。2つ目は工学の専門特に機械工学。自分の専門は一応電気関係であったが、当時の研究分野が量子工学であったため担当者から残念ながらそれでは入学するのは難しそうだねと言われた。これは非常に悔しかった。専攻のみでその人のスキルを測られるものではないと思っていたし、かつもっと自由度の高い大学であると思っていたのでかなり失望した。それでも自分の夢を実現する為、何としてもこの大学に入学しなければと思っていた。

以上、上記2つの経験から日本に帰国してから特にエンジニアのスキルを身に付けようと思った。そこで、帰国してからはTOEFLの勉強はもちろんながら、手始めにCAD等の勉強を始めた。

4. FabLabとの出会い 20114-20117月 -Fablabに関する資料はこちら




ちょうどこの頃、今は同志であり、尊敬している青木翔平と出会った。彼はもともとFabLabに着目していて、私もその影響を受けてFabLabの存在を知る事になった。まだ、その時はFabLabのコンセプトを上手く理解できていなかった。しかし、FabLabの拠点である鎌倉でFabLabマスターである慶應大学の田中浩也先生と議論し、FabLabのコンセプトに共感した。

Fablabのビジョン
個人が、自らの必要性や欲求に応じて、そうした「もの」を自分(たち)自身で作り出せるようになるような社会の実現

特に田中先生が説明してくれたインドにあるFabLabの事例は現地の人々が直面している問題をFabLabという物づくりのインフラを利用して問題解決した好例であった。今まで適正技術は主に先進国で開発され途上国に導入されるのが当たり前だと思っていのたで、この考えは非常に新鮮であり、新しい可能性を自分に示唆してくれた。この考え自体は後々自分の進路に大きな影響を与える事になった。

このコンセプトに共感し、かつエンジニアとしての物づくりのスキルを高めたいと思った私は青木翔平と一緒にFabLabを通して、物づくりの価値観、スキルを学ぶ事にした。

そして、私がファイナルプロジェクトとして製作したものがこのソーラーランタン。色々と考えたがやっぱり自分の原点であるケニアでの経験を活かす事にした。この頃から、ちょっとずつ関心事は“持続性”というキーワードにシフトしてきた。

5.   ケニア滞在(2回目) 20118-20119
FabLabのファイナルプロジェクトのプレゼンテーションの数日後、私は2回目のケニア滞在する事になっていた。期間はちょうど2ヶ月間。今回の目的は炭プロジェクトのフォローアップであった。
1回目のケニア滞在では既に約半年間滞在していたため、新たな発見、気付きはそこまでないと思っていたが、この2回目の滞在が3つの経験から私の人生の方向性大きく変える事になった。

5.1技術のローカライゼーション
81日にケニアに到着し、さっそく炭を生産している女性達のインタビューを行った。その結果、色々と問題がありプロジェクトが上手く回っていない事が分かった。問題は以下の通りであった。

- ドラム缶
生産方法は現地での炭チームのメンバーがバラバラに住んでいた為、近い人同士でチームを組んでその場所で生産するという方式を取っていた。その為、新たな人を巻き込み新たなチームを発足させようとすると農業廃材を炭化するためのドラム缶が必要となるが、その価格が約2,000円と村での平均月収に匹敵し、購入する事が不可能となっていた。

- コンプレッサー
チームを組んだものの、コンプレッサーが数に限りがあり、炭の生産が非効率であった。コンプレッサーの値段もある程度するため、新たに投資するインセンティブはなかった。

- キャッサバ
炭を作る材料として農業廃材以外に接着剤として機能するキャッサバを利用していたが、キャッサバの価格は変動し、季節によって入手する事が難しくなるという問題があった。

上記のように、ケニア1回目では想定していない問題が顕在化した。
さて、この問題に対する解決策は思わぬ形でやってきた。それはあるケニア人の一言であった。

『キャッサバじゃなくて、粘土でできないかな?』

今まで、MITで開発された手法が最善であるという前提でプロジェクトを進めていたが、この一言で実はMITの技術は完璧ではなく、まだ発展途上であるという認識に変わった。そこで、行った事は現地の材料を用いて所謂技術のローカライゼーションをする事だった。

その結果、ドラム缶は現地で生産されているレンガを用いて釜戸を作る事により価格を1/5にし、コンプレッサーもさらにシンプルにして価格を下げ事に成功した。



この経験は私に大きなインパクトをもたらした。
世界を変えるデザインに載っている適正技術の中でも最もローカライゼーションされていると思われたこの炭の技術でさえ完璧ではないのなら、ソーラーランタンも含め他の適正技術も多くはコンセプトモデルで、そこから現地にフィットする為に改良を加えるためのローカライゼーションが必要ではないのかと思うようになった。

5.2 品質管理
ソーラーランタンに初期不良がある事は既に述べたが、実は最初に導入されたランタンは
地理的に近いルワンダの工場で作られたものだった。ルワンダはイメージ的に工場での品質管理になんとなく問題がありそうだなと思っていたので、次に新しく交換品として中国の工場で生産されたランタンが導入されれば問題は解決できると楽観視していた。しかし、私が日本に帰国後に導入されたこの中国で生産されたランタンは私がケニアに戻ってくる頃には同じような初期不良によって機能しなくなっていた。
またか!正直落胆した。このランタンのデザインは非常に洗練されており、デザインコンペでも賞をもらっているほどであった。しかし、それが上手く生産を通して、具現化されていないという現実を目の当たりにした。これでは幾らデザイナーやエンジニアが良いものをデザインしても品質が悪ければ当然ながらエンドユーザーを満足させる事ができないと考えた。

※現在は、別の会社の高品質なソーラーランタンが導入され、人々の生活を劇的に変えている。

5.3 グラスルーツイノベーション
ソーラーランタンの品質問題を抱えてつつ、ナイロビで出会ったのがケニア人が現地でソーラーランタンを生産する団体(SDFA)である。詳しくはこのエントリー(現場からの訂正技術)で述べているが、現地の人々の手によって生活を豊かにする技術を開発できる可能性がある事を実感した。これは先に述べたFablabのビジョンに繋がって来る話だ。

グラスルーツイノベーションという言葉は、株式会社Granmaが指摘している言葉で、インド等のアジア諸国で現地の起業家が現場から技術を開発してイノベーションを起こしているものである。実際にこの動きがアフリカで始まっている。

上記の3つの経験を基に考えた適正技術のあり方について。



以上、この3つの経験から、仮にデザイン工学に関するスキルを身につけて、開発したとしても、本当に必要としている人々の生活を変える事はなく、自己満足に終わる可能性が高いのではないかと思うようになった。それ以上に、このような技術は既に上で述べたソーラーランタンの事例を始め、現場レベルで誕生している事を知り、ますます私がデザイン・開発する必然性を感じなくなってしまった
結果として、この疑問からデルフト工科大学でデザイン工学を学んで適正技術をデザイン・開発するという選択肢はなくなってしまった。

今まで留学を目指して頑張ってきたが、それがなくなってしまった今自分が今後どのような道を歩み途上国貢献すべきなのか?本当にやりたい事は何なのか? 分からなくなり、試行錯誤の2ヶ月間が幕を開ける事になった。

【まとめ】
- ケニア、オランダ滞在⇒エンジニアのスキル不足を痛感
- Fablabとの出会い⇒途上国の人々が現地で物づくりをする事の可能性の示唆
- 2回目のケニア滞在⇒先進国でデザイン・開発された適正技術は途上国に上手くフィットしていない、理想的なのは現地の人々が作る事であるという想いから、自分が適正技術をデザイン・開発するという進路=デルフト工科大学への留学がなくなる。


2012年10月9日火曜日

途上国×技術×キャリア その3 - 原体験-

前回の続き。
今回は、初めてのケニア滞在について書いていく。


3. ケニア滞在(1回目) 20109-20113
初めての途上国であるケニア。 約半年間のケニア滞在で私が実行した大きな活動は2つある。

3.1 ソーラーランタン調査 20109- 201012
適正技術が実際に現場でどのように使用されているのかを確かめる為に、Kopernikから西ケニアの非電化地域に導入されたSolar lanternの調査をする事が一つ目の活動である。
詳しくはこちらのブログ(Life in Kenya)に譲るとして、実際に現場で適正技術を使用している人々へのインタビュー、村人との共同生活を通じて、適正技術の可能性と同時に難しさを垣間見る事ができた。




可能性:
長期間非電化地域の村に滞在してみて、意外にも裕福な人々が村に広大な敷地を有して住んでいる事が分かった。しかしながら、インフラが欠如しているという状況は他の村人と状況が同じ為、平均的な村人と比較して生活の質(電気、ガスがない生活)に大きな解離がなかったと実感した。この為、このような革新的な技術がビジネスとして村に普及する可能性はあると思った。しかし、現状ではその流通もが整っていない為、それはできないでいる。
この事から、幾らお金があったとしても、技術がなければ生活を変える事はできないと身を持って実感した。
⇒発展途上国の問題を解決するには、様々な方法があるが改めて、技術によるアプローチの重要性を再確認した。

難しさ:
上記で述べた可能性と同時に、難しさも垣間見えた。それは、やはり本当に貧しい人々(ラストマイル)に技術を提供する事の難しさだった。ラストマイルに位置している人々は貧しく権力がない為、中々そのような技術にアクセスする事ができないでいる。

【このような考えに至った原体験】
私が滞在していたホストファミリーの家は広大な敷地を有しており、ここでいつも寝泊まりしていた私にとってこの環境が村の標準であると錯覚していた。ある時、村のエイズ患者を訪問した時(西ケニアにおけるエイズの状況)に、本当のラストマイルに位置している人々に出会った。私が今まで村での生活で当たり前だと思っていた事さえ、彼ら彼女らはそれをできない環境に陥っている事を知った。それは、毎日灯油ランプを使う事ができず、夕食を食べる事ができず、無料である初等教育に子どもを通わす事ができないでいるという状況であった。
ライトがない事は非常に大きな問題であるが、このような状況では様々な問題が山積みであり、最も根本的な問題はお金がない事に行きつく。結果的に、ラストマイルの人々はこのような革新的な技術にアクセスする事を困難にしている。



では、なぜお金がないのか?
それは、満足なお金を生み出す収入源(仕事)がないからである。当然村には会社はなく、一部(先生etc)を除いて雇用はない。結果、自分でビジネスを始めるケースが普通である。しかしながら、問題はビジネスを始める際に資金が非常に限られていて、できるビジネスは限られており、そしてとても競合が多いという状況である。村でのビジネスの種類はこのエントリー(炭ビジネスが与える影響)で述べているが、多くの人々は農業、品物を卸売りするリテールビジネスに従事している。しかしながら、ローカルなマーケットに行くと、例えば50人中15人ほどの人々がトマトを売っているという状況である。供給量に対して、どれほどのニーズがあるかは分からないがが、話を聞く限りビジネスとして儲かっていない事が分かった。

そこで、適正技術は4つに分類する事ができる(ビジネスサイドからの適正技術)、中でも特にお金を生み出す技術に興味を持つようになった。それは、この技術がラストマイルに位置している人々の収入を上げる可能性があるからである。

3.2 炭プロジェクト 201012- 20113
この時期、導入されたソーラーランタンに初期不良が見つかり、多くのランタンが機能しないというトラブルに見舞われた。その結果、ソーラーランタンの調査ができないでいた。
そこで、上記の貧困の問題、中村俊裕氏の助言もあり、始めたのが農業廃材から炭を作るプロジェクトであった。
似たような技術、プロダクトは練炭という名で過去の日本にあり、途上国での生産方式もMITD-Labで開発されていた。始めようとした当初は、既にMITで生産技術が確立されており直ぐに結果がでると思っていが、それが困難である事はパイロットプロジェクトを回してみて直ぐに分かった。詳しい活動内容はこのエントリー(Charcoal projectの振り返り①)に譲るとしてここでは、どのような問題に直面したかを書く事にする。


パイロットプロジェクトで見えてきた問題
- 参加者のモチベーション(12)
まずは、どのような問題があるのかを顕在化させる為に、ホストファミリーの周りに住んでいる比較的貧しい3つの家族にこの炭プロジェクトがどれだけポテンシャルあるのかを説明して、参画してもらう事にした。その結果、一部の家族は途中でドロップアウトしてしまうという結果になった。どんなに魅力的なプロジェクトであったとしても、こちら側が一方的に押し付けるのではなく、主体性を持ってこのプロジェクトに本当に興味がある人を巻き込む必要があると感じた。

- 農業廃材の確保(13)
この問題は直ぐに顕在化した。プロジェクトが本格的に動き出した1月は乾季の真っただ中で農業廃材を手に入れるのが難しいというフィードバックをもらった。これは予期していない問題であり、驚きであった。西ケニアの私が滞在している村にはトウモロコシ、さとうきび畑がそこら中にあり、廃材を確保するのは簡単な事だと思っていたからである。

詳しく話しを聞き分析してみると、農業廃材は季節、畑までの距離等により入手難易度が変わってくる事が分かっ(炭作りのコツ)。収入を安定的に得る事が目的である為、原材料である廃材をどの時期でも安定確保しなければいけない。それには季節関係なく廃材を入手する事ができるサトウキビの廃材が適切であった。そこで、サトウキビから砂糖を製糖している会社に着目し、私たちのプロジェクトに廃材提供するベネフィットを訴求した結果、廃材を無償で提供して頂く事に成功した。

- 初期投資の問題(3)
最終月の3月に炭の生産者を増やすべく、炭の作り方を農民に教えるワークショップを開催した。ここで問題となったのが、初期投資であった。生産者が増えるという事は炭を作る為の道具がいるという事になり、その分の資金(初期投資)が必要になるという事である。私がターゲットにしている人々は村の中でも貧困層に位置している人々であり、そのような資金はなかった。

この出来事から今まで適正技術の中でもお金を生み出す技術に興味があったが、それでもなお資金がない事からその技術にアクセスするのが困難であるという問題に直面した。

この問題を解決するべく、ドラム缶のリースを行った。私が半年後に戻ってくる頃には炭でその分の収入を稼ぐ事ができていると予測からである。また、この経験から炭のプロジェクトに限らず、どのようにお金を生み出す適正技術を初期コストという壁を乗り越えて持続的に普及させられるのか考えるようになった。一つの糸口としてはKopernikKivaのビジネスモデルを組み合わせたローンモデルが貢献するのでは考えた。

そして、3月12日ケニア出国の日を迎えた。

ケニア帰国直後の私が感じた問題意識とそれへの解決の手段については下記のエントリーより。
どのように貧困から抜け出すのか?①



4. デルフト工科大学(TU Delft)への訪問 20113月中旬
ケニアの半年間の滞在後は、オランダ経由して帰国する事になっていた。それは、オランダのデルフト工科大学に訪問して、近い将来私が留学するであろう場所を直接目で見て、適正技術に関連する教授陣と私がケニアで感じた疑問点をディスカッションするとともにコネを作る目的があったからだ。

1週間のオランダ滞在では、まずデルフト工科大学の環境の素晴らしさに感動した。
まずは国籍の多さ。Couch Surfing を通じて、宿泊場所を提供してくれるデルフト工科大学の学生と出会う事になったのだが、彼を通じて様々な国籍の学生と出会う機会ができた。日本ではこんな環境はあり得ないので、非常に興奮した。



私が宿泊した学生寮

また、デルフトの街並み、キャンパス自体も非常に洗礼されていて、衝撃的だった。さすが建築、デザインに定評のあるオランダである。こんな所で学生生活を過ごせたらと妄想の連続であった。




適正技術に関連する教授陣、学生と議論を重ねる事により、どのようなプロセスで適正技術が生まれていくのかが分かった。その多くは学生がチームを組んでプロジェクトベースで進む。それは学生が自らの問題意識で始まるものもあったり、他の団体との共同プロジェクトであったりするする。ここから生まれたプロダクトはLifeStrawMoonLight等である。さて、アフリカでのプロジェクトを行っている学生と議論を重ねると、意外にもアフリカでの経験がない事が分かり、これは自分の強みであると自身につながった。

以上の経験からますます、留学への想いは募るばかりであった。

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最後に私がこの半年間でどのように変わったのか一目で分かる写真があるので
ここで紹介する。



半年のケニア滞在での一番の収穫は自信であった。最初の数カ月は英語での会話、下痢、金銭トラブル等で苦しかったが、同時にここでしか得る事のできない貴重な体験ができた。この経験で間違いなく、私の人生に大きな影響を与えた出来事の一つであった。


【まとめ】
- ソーラーランタンの調査
適正技術の中でもお金を生み出す技術に興味を持つようになる。

- 炭プロジェクトのパイロット
初期投資をクリアする為のローンモデルの必要性を実感。

- デルフト工科大学訪問
留学して、お金を生み出す技術をデザイン・開発・ビジネスモデルの構築をする事により一層興味を持つようになる。

次回に続く。

2012年10月7日日曜日

途上国×技術×キャリア その2 - 挑戦-


間がしばらく空いてしまったが、前回の続き。
今回は大学院入学からケニア派遣に至るまでの流れを述べていく。

2.ケニア滞在直前
その1で出てきた友人の影響は単に私が途上国に興味を持っただけでなく、自分のロールモデルになった事であった。彼は熱いパッションを胸に大学を休学して、初めての飛行機で向かった先はアフリカであった。この前例があったから、途上国へ行く事のハードルが下がり、休学する事が決意で来た。彼のように前例が何もない状態から行動をするというのは困難であると思うが、ロールモデルさえあれば何とかなるものである。

さて、大学院に入学してから私がケニアに行くまでに直面した困難(?) 2つある。

- 休学の申請(修士1年の春、2010)
1つ目が果たして大学院の研究室の先生が私の休学の申し出を受け入れてくれるのかという点である。それはそうである。外部から来た学生がいきなり休学させてくださいというのは普通ではない。
なので、拒否される可能性を想定しつつ、不安になりながらも先生に私の想いを伝える事にした。結果、意外にも先生は快く休学を許可してくれた。これは本当に先生の考え方によって結果が変わってくるはずなので、私の提案を受けいれてくれた日野出先生に感謝したいと思う。

- 派遣先の決定(20104-6)
2つ目が派遣先についてである。これは非常に重要である。なぜなら、途上国の受け入れ先がなければただの旅行に終わってしまう可能性があるからである。

しかし、アフリカに行きたいという強い想いはあったが、では"実際に現地に行って何をやりたいのか?"という質問に答える事のできる具体的なアイデアは全くなかった。

そこで、考えたのが既に現地で動いているプロジェクトにボランティアとして参加するという事である。例えば、世界を変えるデザインに載っているケニアのKickStartではインターンシップを受けいれている。
さて、受け入れてくれそうな団体を探している最中に、知り合いを通して幸運にもシエラレオネで活動しているオランダの学生団体と連絡を取る事ができた。しかも、偶然にもメンバーの一人がたまたま京都大学に短期留学していたので、京都で話す事になった。そして、拙い英語でなんとか私の想いを伝え、彼女がオランダにいるメンバーに私がプロジェクトメンバーとしてシエラレオネで活動できるよう働きかけてくれる事になった。



時を同じくして、適正技術によって途上国支援する米国NPO法人Kopernik中村俊裕氏と出会った。そして、シエラレオネで半年間も滞在するならKopernikのプロジェクトを手伝う事できるのではという話になり、ますますシエラレオネでの活動に期待するようになった。

しかしながら、それから1ヶ月の内になんとこのシエラレオネの話はお蔵入りになってしまった。その理由は、私がシエラレオネでやろうとしているプロジェクト案が現実味に欠け、結果現地で単独で行動できるほどの能力がないとオランダの学生団に判断されたからである(推測)。当初私は現地において、その団体のプロジェクトを手伝う事がメインの仕事だと思っていたが、先方求めてきたのは私が現地で何をやりたいのかという事だった。これは現地でそこまでプロジェクトに関係したタスクがなく、何か新しい活動が求められている事が背景にあり、そして同時に私の実力を測るものであると推測した。

当時は途上国経験がなくどんな問題を抱え、どのようなニーズがあるのか見当もつかなかった私はとりあえず限られた時間でアイデアを考え、それを提案した。今考えれば相当イケていない案であったが。結果、上記の悲しい結果になってしまった。この時点でアフリカ行きまで残り3カ月ほどであった。

このような状況で自体が好転したのはKopernikの中村俊裕氏の協力のおかげであった。シエラレオネの件を伝え、Kopernikの活動をメインでしたいという事を伝えると、この提案を承諾してくれて、プロジェクトサイトの候補地を2か所(ケニアと東ティモール) 挙げてくれた。アフリカに興味があった私はケニアを選ぶ事にした。具体的な活動内容は西ケニアの非電化地域の村に導入されたSolar lanternがどのように人々の生活を変えているのかを調査する事にあった。
その後、ケニアのカウンターパートとのメールが始まり、ケニア滞在の日が刻々と近づくのであった。



【まとめ】
Kopernikとの出会い⇒ケニア非電化地域にてSolar lanternの調査を行う事が決定。

次回に続く。